法人の歴史と沿革
<戦前・戦中の歩み>
1907年 | 大阪婦人ホームは、大阪市北区中之島6丁目に、林歌子を代表とする キリスト教婦人矯風会大阪支部が、農村から仕事を求めて来阪する女性を、悪徳業者から守り、短期の宿泊所提供と職業紹介・自立を支援するための施設として創設。 |
1910年 | 財団法人の認可を受ける。 以後、生活苦の母子・夫の暴力から逃れた女性・行き場のない妊婦など女性の保護、相談・自立支援など活動の輪を拡大。 |
1912年 | ミナミの大火で難波遊郭・大阪キタの大火(3年前)で曾根崎遊郭が全焼。林歌子を中心に矯風会大阪支部が拠点となり、本部(東京)・各支部とともに、廊清会、救世軍など諸団体と連携し、再建反対の猛運動を展開。この公娼制度廃止運動は、大正から昭和初期に及ぶ大きな事業として展開。 |
1932年 | ジャパンレスキューミッション(デンプシー宣教師が創設)が堺市に娼妓救済施設・慈愛館を開設。活発な廃娼運動で知名度の高かった婦人ホームが自由廃業女性の駆け込み窓口となり、ミッションが受け入れる活動を、連帯して取り組んだ。開設年度には87人を送る。 |
1940年 | 日独伊三国同盟締結により、敵国となったミッションの宣教師らが、12月と翌年1月に帰国。慈愛館の運営は聖公会に託された。 |
1941年 | 慈愛館の入居者のうちの児童と大半の職員は、「東光学園」と名称変更された施設に残る。入居女性数人と小野易子を中心とする4人の職員は、三島郡安威村(現在の茨木市)の家屋(千坪の土地つき)に移り、女性の保護事業を継続した。安威村の施設は、小野易子に請願され、林歌子が取得のため奔走・開設したもので、大阪婦人ホーム分館になった。中之島の施設は大阪婦人ホーム本館とされた。12月・太平洋戦争・英米に宣戦。 林歌子は1938年に矯風会会頭に就任していたが、開戦前後の5年間の矯風会活動は、国家総動員法に象徴される戦時体制の下、制限を余儀なくされた。 |
1942年 | 第108回理事会で財団法人大阪婦人厚生館と法人名称を変更(戦後は再び大阪婦人ホームに) |
1944年 | 分館では博愛社からの疎開児童を受け入れた |
1945年 | 中之島の本館は、大阪逓信局(現NTT)に隣接していたため、疎開を命じられ、事業を一時休止し、職員は分館に。 |
<戦後の歩み>
1946年 | 3月24日、林歌子、大阪婦人ホーム分館2階の居室にて永眠。 戦後、分館では小野易子を中心に戦災孤児の受け入れを行っていた。 |
1948年 | 逓信局所有地の大阪市大淀区豊崎(現大阪市北区)と中之島の本館の土地を交換。翌年、豊崎に木造1棟を建築、大阪婦人ホーム本館事業再開。 |
1950年 | 小野易子から申し出のあった分館事業の分離を理事会が承諾する。 |
1951年 | 婦人ホーム分館の土地建物を財団法人レバノンホームに移譲→社会福法人レバノンホームに。 |
1952年 | 社会福祉法人の認可を受け、生活保護法の更生施設(定員25名)に。 翌年、附属家屋を居室の改築(定員30名)。 5年後、木造2階建1棟増築(定員47名)、8年後年後 鉄筋コンクリート2階1棟増築。 1964年定員を50名に。 |
2002年 | 所在地を北区から平野区に移転。鉄筋コンクリート4階建の元大阪市立加美北小学校分校を改築し、救護施設(定員90名)として事業開始。定員20名の生活ケアセンターを併設。 |
2007年 | 救護施設の名称をホーリーホームと改称 |
2010年 | 法人事業を拡大し児童福祉事業に取り組む。大阪市都島区高倉町に子ロバ保育園(定員90名)を開園 |
2014年 | 大阪市都島区都島北通に子ロバ乳児園(定員19名)開園 |
2015年 | 大阪市都島区高倉町に子ロバキッズクラブ(放課後児童クラブ)開園 |
2016年 | 大阪市淀川区野中南に十三保育園(定員90名)開園 大阪市都島区高倉町に子ロバキッズひろば(児童発達支援・放課後等デイサービス)開園 |
2024年 | 大阪市より「大阪市女性活躍リーディングカンパニー」の認証を取得(2月1日付) |